言語化がすべてではない?

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私の数少ない友人の一人に、絵画の制作に取り組んでいる芸術家の人がいます。

 

彼女はとても独特な感性で生きている人で、物事に対して少し変わった視点を持っています。

 

たまに電話で話すことがあるんですが、私とは全く異なる視点や切り口から感じたことを教えてくれるため、

 

いつも良い意味で「…なるほど、そういう風に感じるんだな」と思います。

 

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例えば、、、

 

人生って、色々な問題が起こりますよね。

 

病気や障害で苦しんだり、

経済的に苦境に陥ったり、

家族との関係でしんどさを感じたり、

仕事が上手くいかなかったり、

学校に馴染めなかったり、

社会の中で居場所を見付けられなかったり、

etc…

 

色々あると思います。

 

私の場合は、所謂「システム脳」がかなり強い傾向があり、何かの問題に直面すると、必ず正面から「問題解決」しようとするんです。

 

目の前の問題と自分の関係をメタ的に捉えて、システム化して解決しようとします。

 

例えば、「プレゼンでうまく話せない」という悩みがあったら、

 

…なるほど、言語化にはこういう仕組みや構造(メカニズム)があるのか。ということは、すらすら話せるようになるためには、プレゼンターの脳内でこういう条件が満たされる必要があるだろう。

つまり、自分の中にプレゼン用の言語化モードを構築するには、レキシコンを活性化しなければならない、ということになる。では、そのためには…

 

 

こういう風に、戦略を立てて問題を解決しようとします。

 

※というより、それしかできないのですが…。

 

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ところが、彼女の対応はそれとは全然異なり、

 

何かの悩みが生まれたり、困った状況が起こった時、基本的にすぐに動こうとするのではなく、その状況を眺めながら、何か新しい変化が起こるのをじっと待つ、というスタンスなんです。

 

それを無理やり解決しよう、としないんですね。

 

腕を組んで、カードが並べられた机の上を眺めながら、何かの意味とか符号が浮かび上がるまでじっと待つ、というような感じです。

 

…占い師かよ、とか思うのですが、

 

こういう悩みとかに対する対応一つでも、全く感じ方や捉え方が違うので、面白いなーと思います。

 

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彼女は絵を描く人なので、たまに絵画系の話題になることがあります。

 

最近はどんな絵を描いているの、とか。

 

そして以前、

 

「あなたの絵は、何を表現しようとしているんだろう?」

 

こういう話をしたことがあります。

 

もちろん、別にラベルを貼ったり、カテゴライズしたい訳ではなく、

 

その感性の核の部分には何があるのか、概念的に把握したいと思ったからです。

 

ただ、彼女はこの点について、いつも「自分でもよくわからない」といいます。

 

こういうプロセスでは言葉を当てはめることが避けられませんが、

 

さらに話を聞いてみると、「言語化」という言葉が嫌いだったり、そもそも言葉にすることに抵抗感があると言ったりするんです。

 

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確かに、言葉によって何かを表現することは、同時に何かを表現しないことでもあり、また「表現しえない何か」が失われることにも繋がるでしょう。

 

そもそも、あらゆる言葉には、沈黙に対する暴力性がある。

 

この感覚は、とても重要なものだと私は思います。

 

芸術ならなおさら、言葉とは異なる表現を開発することや、言葉で置き換えられないものを描くことが重要でしょう。

 

言葉にすること=言語化は、決してすべてではない。

 

書店とか、SNSとか見ると「言語化」はとても流行っていますが。

 

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という訳で、言語化は重要だけれど、それがすべてではないよね、という話でした。

 

言語化の対極にある、

 

言葉にできないこと、言葉の危険性、そもそも言語化しないほうがいいもの、そういう

 

ファジーさ(曖昧性)やフラジャイル性があり、それも重要であることは忘れずにいたいところです。

 

ただ、私たちにとって言語化は重要なテーマで、このブログも言語化に関する悩みを扱うサイトなので、基本的には言語化についてお話していければと思います。

 

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